「おかえり。」

 ベッドの方から紫苑の声がした。薄い毛布を被り上半身を起こしたまま、シェイクスピアの『リア王』を開いている。子ネズミ達に朗読してやっていたところだろう。

「ただいま帰りました、陛下。」

 扉を閉めてネズミは王に仕える召し使いのように、わざとらしく深々とお辞儀して見せる。
 紫苑がふふ、と笑った。その頬が、僅かに桜色に染まる。
 ネズミはつかつかと紫苑の側に歩み寄り、右手の甲を紫苑の頬にそっと当ててみた。明らかに火照っている。

「‥昨日夜風に当たりすぎただろう。熱出てるぞ。」
「あ。‥もうバレちゃった?」

 紫苑がえへへ‥と真っ白な頭を掻く。その笑顔は、いつものような春先の姫紫苑を連想させる、儚くも力強いものではなく、熱のせいで表情筋がゆるみ、精神的にもひどく弱くなった人間の顔だった。
 ネズミは小さく溜め息をつく。

「本読んでる暇があったら、とっとと寝ろ。これ以上拗らせて、俺に移しでもしたらつまみ出すからな。」
「朗読くらいいいじゃないか。ハムレット達も喜んでるのに‥」

 紫苑はぷうっと唇を尖らせる。
 呆れたネズミは、少々強がりな少年を無理矢理ベッドに押し倒し、華奢な身体に毛布をかけてやると、直ぐに側を離れた。壁に積まれたたくさんの本の中に左腕をつっこみ、小さな救急箱を取り出す。開けると、医療用アルコールの匂いがツンと鼻をついた。綺麗に整頓された医療品の中から、ネズミは解熱作用のある白い錠剤を3粒取り出し、紫苑に渡す。さらにコップに水を入れて、薄いオレンジ色の粉を少し混ぜた。
 相変わらず滑らかな美しい動きをするなぁ、ネズミは‥と、心の中で呟きながら、紫苑はそれを不思議そうに眺める。

「その粉は何?」
「食欲促進剤みたいなもん。あんた、今朝ほとんど何も食べてなかっただろう?」
「そうだったっけ?」
「いいから黙って飲め。一気にだぞ。」

 言われるがままに、紫苑は錠剤を口に放り込み、それと一緒に粉が混ざった少しぬるめの水を飲み干した。
 錠剤は飲み込むものなので味は感じなかったが、粉を混ぜた水は、何故か妖艶な甘さがあった。

「‥不思議な味の薬だな。こんなの初めて飲んだ。」
「不思議な味?」
「うん。なんだか、頭の奥に響くように甘いんだ。‥くらくらする‥くら‥い‥‥」

 言い終わらないうちに、紫苑はそのまま糸が切れたマリオネットのように、ふらふらと後ろに倒れこんでしまった。

「紫苑!」

 あわててネズミが紫苑の背中を受け止める。ネズミの腕の中で、紫苑がうっすらと目を開けた。先刻よりも更に頬が上気している。

「どうした?大丈夫か?」
「‥‥ん、ちょっとだけ‥身体の、中が‥、熱い‥‥」
「苦しいのか?」
「‥胸が‥‥、きゅっ‥て‥」

 若干声も熱を帯びている。話すことさえ苦しそうだった。紫苑は目を閉じ、ふうっと一息つく。
 紫苑の熱い吐息が、ネズミの頬にかかる。微かに薔薇のように濃い、くらっとするような甘美な香りがした。こちらまで胸が苦しくなるくらいだ。

「‥どういうことだ?まさか、違う薬を?」

 すっかり身体が熱くなった紫苑をそっと寝かせると、ネズミは救急箱に手をかけた。あのオレンジ色の薬の容器をねめまわすように確かめる。

「‥philter。媚薬?何でこんなもんが‥」

 さらに救急箱を探ると、媚薬の入った容器とよく似た容器があった。
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